今回のじーものもじ知識は
「バナナのたたき売り」
じいちゃん。
「バナナのたたき売り」っていつ頃始まったの?
じーもは「バナナのたたき売り」に興味を持ったのじゃな。
じゃあ、
今日は門司港とバナナの歴史をじーもに話そう。
バナナが台湾から商業用として日本に運ばれ始めたのは、明治36年4月のススペル号が最初と言われているのじゃ。
バナナって明治までは食べられてなかったの?
そうじゃな、台湾の日本への編入によって、大量に輸入されるようになったことで、庶民も気軽に食べられるようになったといわれておる。
大正13年には、半官半民の台湾青果(株)が設立され、それに伴って台湾・基隆港から門司港を起点に神戸港へ運ばれるようになったのじゃ。
それと「バナナのたたき売り」とどんな関係ががあるの?
じーも、焦ってはいかん。
当時のバナナボート(バナナ運搬専用船)は、まだまだ性能が十分ではなかったことから、青いバナナは輸送中に傷みが生じたり、成熟が進み過ぎる事が多々あったのじゃ。
それを、7つ(青ぶく、じく、風邪ひき、潮かぶり、折れ、もげ、腐れ)に分類する作業も、門司港での大切な役割となっておった。
今のように傷んだ商品は加工品として利用できる時代ではなかったので、門司港で荷揚げした時に、商品価値がないと判断されたものは廃棄されてたのじゃ。
そんなのもったいないよ。
みんなで食べれば良かったのに。
じーもは勘が良いのう。
やがて、廃棄されるバナナを小さくカットして、食べられる部分を小皿に持って、道端で売る人が現れてきて、それが人気となり、次第に傷む前のバナナを商う人も増えてきた。
そこで、他者より目立つ為の工夫として始まった宣伝文句(口上)が練り上げられたのが「バナナのたたき売り」の始まりで、それが口伝によって引き継がれたのが現在門司港に残るバナちゃん節なのじゃ。
バナナのたたき売りにはそんな歴史があったんだね。
現在では、『門司港バナナの叩き売り連合会』によって継承されて、『門司港バナナ塾』も毎年開講されているのじゃよ。
口上ってどんなことを言ってるの?
それじゃあ、一部だけじーもにも覚えてもらおうかのう。
【門司港名物 バナナのたたき売り口上】
作・口上 井川忠義
春よ三月春雨に
弥生の空に桜散る
奥州仙台伊達公が
なぜにバナちゃんに惚れなんだ
バナちゃんの因縁聞かそうか
生まれは台湾台中の
阿里山麗の片田舎
土人の娘に見染められ
ポッと色気のさすうちに
国定忠治じゃないけれど
ひと房ふた房もぎ採られ
唐丸籠にと詰められて
阿里山麗を後にして
ガタゴトお汽車にゆすられて
着いたところが基隆港
基隆みなとを船出して
金波銀波の波を超え
海原遠き船の旅
艱難辛苦の暁に
ようやく着いたが門司みなと
門司は九州大都会
門司のみなとで検査され
一等二等あるなかで
私のバナちゃん一等よ
<バナナの叩き売り 懐かしの口上より一部抜粋>
口上ではこんな内容が話されているのじゃ。
バナナの物語みたいだね。
そうじゃな。
だからこれを聞くために集まる人たちも多かったのじゃ。
でも、
よくこんなに長い内容が口答で細かく伝わったね。
残念ながら、これは井川忠義さんという方が、子供の頃に聞いた露店の口上を記憶の中で再現させて作り上げられたものなのじゃ。
じゃあ内容は昔と違うの?
確かに違うといえば違うのかもしれん。
しかし、演者が変われば口上が変わるのは不思議ではないし、一度は消えかけていた口上の伝統が、ここまで再現できているのは素晴らしいことなんじゃよ。
そうだよね。
僕がお客さんの声によって、アドリブで色んな動きをしているのと同じで、それぞれの演者さんにアドリブや個性があったって不思議じゃないし、ここまで再現してるって凄いことだよね。
そうじゃよ。
伝わった口上が正しいとか間違っているとかではなく、門司港にはこんな伝統があったことをこれからも伝えていく事に意味があるんだとおじいちゃんは思うよ。
うん。
おじいちゃんありがとう。
なんだか「バナナのたたき売り」が好きになってきたよ!
今はユーチューブって便利なものがあるようじゃから、ちょっとどんなものかを最後に紹介しておこうかの。
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